■ 研究員ブログ152 ■ パリのセーヌ河岸の光りと影とは?

『シャンゼリゼ通り』フランス・パリの市内北西部

移転というと、東京都の中央卸売市場の
豊洲移転が注目を集めていますが、
この「研究員ブログ」も世界遺産アカデミーの公式HPから
世界遺産検定の公式HPへと移転しました。

世界遺産アカデミーの公式HPが老朽化したわけでも、
内容が大渋滞(?)しているわけでもありませんが、
世界遺産検定の公式HPが全面的にリニューアルしたのを機に、
新しいHPへ載せてもらうことになったのです。
これからもよろしくお願いします。

長く続いてきたものを大改造するというのは
築地の例を見るまでもなく本当に大変なことです。
「慣れ親しんだ」というのは人にとって大切な価値のひとつで、
どんなに大改造が素晴らしかったとしても敵わないものです。
世界遺産検定の新公式HPも慣れない点はあると思いますが、
暖かく見守って頂ければと思います。

世界遺産でみると、リニューアルというか大改造が
価値のひとつになっているのが『パリのセーヌ河岸』です。

パリは2,000年を超える歴史をもつ都市ですが、
私たちが今、目にするパリを特徴付けている大通り(ブールヴァール)や、
高さや屋根の色、窓の大きさなどが統一された建物などの街並は、
19世紀後半のパリ大改造によるものです。

ナポレオン1世失脚後のフランスは混乱していました。
王政復古していたブルボン家が1830年に七月革命によって倒され
立憲君主制(七月王政)となるものの、
その七月王政も1848年の二月革命で倒され第二共和制となります。
その第二共和制で力を得たルイ・ナポレオンが
51年にクーデターを起こして独裁権を握ると、
翌52年には国民投票で皇帝に即位し、ナポレオン3世と称しました。

それぞれの革命で蜂起した人々が利用したのが
パリの狭く暗く入り組んだ路地でした。
その路地にバリケードを築くと政府軍でも
簡単には制圧することができなかったのです。

そうした社会情勢に加え、
イギリスでの産業革命の影響が七月王政の頃にフランスにも及び始め、
パリも人口が増加して、労働者階級の住環境は
不衛生で無秩序で不安定で、かなり酷いものになっていました。

パリの大改造はその雑然とした状況の中で始まります。

ナポレオン3世の命を受けた
セーヌ県知事のジョルジュ・ウージェーヌ・オスマンは、
古い建物を壊し道を拡張して、
約200kmに及ぶ新街路を建設し、
約600kmに及ぶ下水道を整備し、
庁舎や教会、街灯、歩道などを整備しました。
約30,000件あった家屋は、
20,000件以上が取り壊されたといいます。

そうして近代的で清潔なパリが誕生しました。
この大改造をたった20年ほどで成し遂げたということに驚かされます。

一方で、その事実は取りも直さず、
オスマンの手法が強い意志をもち強権的であったことを意味します。

当然、都市の下層階級や労働者階級の人々の生活は顧みられることなく、
住居を追われた彼らは郊外や屋根裏へと移らざるを得なくなり、
ブルジョアや労働者階級、下層階級などの間に
新たな格差や差別を生み出すこととなりました。

個々の地主がそれぞれ勝手に管理していた都市の内部を、
公共空間として行政が制御するという都市計画は、
近代的な都市計画の見本として画期的なものでしたが、
その裏側には問題もあったわけです。

これは都市計画を考える上で、とても示唆に富んでいると思います。

全ての人が納得する方法はない以上、
どこかで、えいやっと行動しなくてはいけないのでしょうが、
どのレヴェルでどのようにコンセンサスを得なければならないのか。
危機遺産リストに記載された『ウィーンの歴史地区』の例もあるので、
都市開発や大改造というのは慎重にすべきだと、僕は思います。

でもあんなに批判のあった京都タワーだって、
いまでは立派な京都のシンボルなんですから、
新しいものに「慣れ親しむ」というのも必要なのかもしれませんね。
エッフェル塔の例を出すまでもなく。

パリを訪れたらぜひ街並をよく見てみてください。
フランスやパリが激動した19世紀という時代を
感じることができるはずです。たぶん。

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