■ 研究員ブログ159 ■ 今さらながら第43回世界遺産委員会のお話

ようやく朝晩涼しい風が吹いて、秋の表情が見えるようになってきましたね。気が付いたら、世界遺産委員会からもう2ヶ月も経ってしまっていました。すみません。

今回の世界遺産委員会では、日本から「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産登録されました。事前のICOMOSからの勧告が「登録」だったこともあり、本会議でも大きな問題はなく登録決議が出されました。日本では23件目、大阪では初の世界遺産です。

「百舌鳥・古市古墳群」が登録される前から指摘されていたのが、宮内庁が管理する陵墓へのち入りが出来ないことです。それは考古学的な意味と、観光資源としての意味の2つから指摘されていたように思います。

考古学的なところでは、「世界遺産として守るのだから、誰が葬られているのか明らかにする努力をすべきだ」というものです。特に第16代仁徳天皇の墓とされる「仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)」に関しては、次の第17代履中天皇の墓とされる「履中天皇陵古墳(百舌鳥陵山古墳)」の方が、作られた年代が古いということが考古学者の中では定説となっており、天皇としての歴代と異なっています。

現在の宮内庁が管理する陵墓の治定(じじょう)は、「延喜式」と呼ばれる第60代天皇の醍醐天皇の命で編纂された平安時代の史料を基に、江戸時代末から明治期にかけて行われたものを基本としています。仁徳天皇は醍醐天皇から見ても400年ほど前の人物です。今から400年前と考えると江戸時代初期。ほとんど史料のない状態で、江戸時代初期のことを書いていると考えると、その内容は学術的に見直してもよいのではないかと思います。そのためにはある程度の発掘調査は必要となります。

一方で、宮内庁としては、現在の天皇の祖先の墓として祭礼を行いながら守っている以上、「やっぱりこっちだった」「いや違うこっちだ」というように、時々の定説によってころころと治定を変えるわけにはいきません。「絶対に」ここは違うという証拠が出てこない限り、現在の治定を変えないというのも理解できます。そして、墓誌が残る古墳がほとんどないことから考えても「絶対」という証拠はなかなか出てこないでしょう。また神聖な陵墓なので、あっちこっち掘り返して調べるのは憚られるというのも分かります。僕も、日本に限らず、王の墓などを開いて埋葬品を博物館などに展示することについてあまり賛成ではありません。適切に保護・保存する上で必要だというのはわかりますが。百舌鳥・古市の古墳については、宮内庁の管理の範囲内で、研究者と共同調査を行うという現在の方法がよいのではないでしょうか。

ただ仁徳天皇陵古墳の名称については、世界遺産の構成資産としては「仁徳天皇陵古墳」とだけ書かれていますが、世界遺産アカデミーでは「仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)」と併記していきます。

それに対して、観光資源という意味においては、一般公開する必要はないと思います。中に入ったところで鍵穴の様な前方後円墳の全体像は見えないですし、大きさを実感したいのであれば、古墳の周りをぐるっと一周歩くというのがよいと思います。仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)を一周歩くと大きな古墳であることがよくわかりますから。

今回の世界遺産委員会に話を戻すと、今回の世界遺産委員会でも諮問機関の勧告が尊重されないということが問題となりました。登録勧告で登録決議になった遺産を除くと、全体の約7割の遺産が勧告と異なる決議となりました。特に情報照会勧告だったものは、全て登録決議になりました。これでは「情報照会」という勧告が存在する意味はあるのでしょうか。また諮問機関の存在意義すら疑問になってしまいます。諮問機関の信頼性が揺らぐことについては、世界遺産委員会でも懸念しているようです。揺さぶっているのは誰だって感じですが。

そこで、2015年から作業指針に記載されたアップストリーム・プロセスが更に進められ、予備段階で評価を行うプレリミナリー・アセスメントも今後行われるそうです。これにより、推薦する国と諮問機関の対話が早い段階から行われ、世界遺産委員会での諮問機関との評価の食い違いが減ることが望まれています。それにしても、世界遺産委員会で各国代表が諮問機関の勧告を尊重することがなければ意味がないのですが。

もっと本会議の前に事務方で事前審議を行ってもよいのではないかと思います。大臣クラスの会議で行われているように。

世界遺産委員会が終わってずいぶん経ってからの記事になってしまい申し訳ありません。第43回の世界遺産委員会についてはまた何かで書けたらと思います。

(2019.09.06)