もう20年ほども前に他界した祖父の友人が、老舗ロシア料理店の料理長をしていたこともあって、小学生の頃から時どきロシア料理を食べに連れて行ってもらっていました。そこで食べた「ウクライナ風ボルシチ」が僕のボルシチのイメージです。今でも実家に戻ると、母が「ウクライナ風ボルシチ」風の野菜スープを作ってくれます。けっこう美味しい。
ボルシチは、現在のウクライナのある辺りのスラブ系民族が日常的に食べてきた素朴なスープです。「宮廷料理」のように確立した絶対的なレシピがあるものではなく、地域の人々の暮らしの中で様々な場面や食材によって、多くのヴァリエーションがあるとされています。それは当然、近現代の国家の線引きとは関係がありません。
そのボルシチが、「ウクライナのボルシチ料理の文化」としてウクライナから無形文化遺産に申請され、7月1日にオンラインで開催された無形文化遺産の保護に関する政府間委員会第5特別会合にて登録が決議されました。苦しい日々を過ごすウクライナの方々にとっては、久しぶりの朗報です。おめでとうございます!
推薦書を見てみると、ウクライナの各地域ごとに50や60ものヴァリエーションがあるそうです。ウクライナの各家庭で、調理方法やレシピが受け継がれてきており、おもてなし料理としてボルシチを囲むことで、全ての世代やジェンダー、バックグラウンドをもつ人々を結びつけるとも書かれています。
この無形文化遺産というのは、世界遺産の保護に関する「世界遺産条約」とは別の、「無形文化遺産条約」で保護されています。この無形文化遺産条約の制度で、世界遺産と大きく異なっているのが、登録リストを「無形文化遺産の代表的リスト(代表リスト)」と「緊急に保護する必要のある無形文化遺産リスト(緊急保護リスト)」に分けている点です。グローバリゼーションの中で失われつつある文化の保護という条約の主旨から、「代表リスト」よりも「緊急保護リスト」の方が重要であると考えられています。(記載されている遺産の重要度ではありません。)
今回の「ウクライナのボルシチ料理の文化」は、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、コミュニティの文化維持や食材の調達、安全な家族での食生活などが脅かされているとして、「緊急保護リスト」に記載されました。もともと2023年に審議される予定でしたが、侵攻の激化と長期化を受け、前倒しで審議が行われました。
「ウクライナのボルシチ料理の文化」の無形文化遺産登録を受けて、「ボルシチはロシアではなくウクライナの料理だ」、「ボルシチ戦争にウクライナは勝利した」というようなことを言っている人がいますが、それは誤解です。ユネスコのサイトにも「無形文化遺産登録が、関係する遺産の独占権や所有権を意味するものではない」とあるように、今回の決定は、ボルシチがウクライナの人々の文化や社会において重要であると認めているものの、「ボルシチがウクライナ『だけ』のもの」だとは一言も言っていないのです。
2012年にイタリアの「クレモナの伝統的なヴァイオリン制作技術」が無形文化遺産登録されました。僕の楽器もクレモナ製なので嬉しかったことを覚えていますが、当然のことながら、「ヴァイオリンを作っていると言えるのはイタリアだけだ」なんて言う人はいません。「ヴァイオリン戦争にイタリアは勝利した」なんてもう意味不明です。
ロシア軍によるウクライナ侵攻のような事態が起こると、民族的なアイデンティティを前面に押し出したナショナリズムが高揚します。そこでは民族コミュニティの文化の固有性が必要以上に強調され、排他的な行動にも結びつきます。逆に、コミュニティの外部から文化的な固有性を強調させて破壊や抑圧の標的にすることもあります。イスラムのスカーフをした女性を襲ったりするのがそうした例です。
以前、「■ 研究員ブログ166 ■ 無形文化遺産条約で食文化を守ることはできるのか」でも触れましたが、文化に明確な境界線を引くことは困難です。そうした文化を国際条約として国家単位で登録するというのは無理が生じます。食文化のように人々の生活と深く結びつく文化ではなおさらです。そのため、食文化を無形文化遺産として登録することは、僕はあまり賛成ではありません。
無形文化遺産条約の政府間委員会が、ウクライナの現状を憂慮して無形文化財の保護を急いだというのは分かります。しかし、今回の登録が排他的なナショナリズムに結びつかないか心配です。ロシア軍によるウクライナ侵攻は酷い所業ですし、一刻も早く終結してもらいたいと思いますが、文化を分断させるようなことにならない方法はなかったのかなとも思います。その意味では、ロシア軍の侵攻前の2020年に「ウクライナのボルシチ料理の文化」を推薦したウクライナの意図も、純粋な文化財保護だけではなかった気もします。
ロシア軍のウクライナ侵攻から世界中に広がった暗雲はいつ晴れるのでしょうか。なんだか雲が厚くなっていっている気がして怖いです。ほんとうに、ただ美味しく様々なボルシチを食べたいだけなのに。
(2022.07.04)
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