■ 研究員ブログ204 ■ 「飛鳥・藤原の宮都」の推薦決定!

「飛鳥・藤原の宮都」の世界遺産登録に向けた推薦書が承認され、推薦書の提出が決定しました。明日香の辺りは子供の頃からよく訪れ好きな場所だったので、本当に嬉しいです!

ここからは2月1日までにユネスコの世界遺産センターに推薦書が提出され、今年の秋頃にICOMOSによる現地調査を含む審査が行われます。ここがまず大きな山場です。その後、来年(2026年)の5月の大型連休の頃までにICOMOSから「勧告」を含む評価報告書が出され、それに基づき夏頃に開催予定の第48回世界遺産委員会で登録の可否が決定します。今年は日本から新規登録される世界遺産候補がないので、来年が楽しみですね。

「飛鳥・藤原の宮都」の登録基準は(ii)と(iii)です。

登録基準(ii)は「価値観の交流」ですが、ここでは古代の宮都を作り上げるにあたって大陸や朝鮮半島の国々との建築や土木の分野での交流があったことを遺産群が証明しています。登録基準(iii)は「文明の証拠」ですが、ここでは飛鳥と藤原の2つの宮都で古代の宮都がどのように形成されていったのかを証明しています。

この遺産は、「宮殿・官衙跡」と「仏教寺院跡」、「墳墓」の3分野で、6世紀末から8世紀初頭にかけて大陸や朝鮮半島と交流しながら日本で初めての中央集権体制に基づく宮都が誕生したことを示しています。

当初は22件の構成物を含む20の構成資産を推薦候補としていましたが、最終的には大和三山(香久山、畝傍山、耳成山)が外れて、19の構成資産となりました。僕が奈良を訪れる時はなぜか満月が多く、大和三山と満月を見ながら古代の人と同じ風景を見ているのでは! なんて思ったりして好きな景観だったのですが、今回外れてしまってちょっと残念です。地図で見ると藤原宮は本当に大和三山に囲まれた場所に築かれているのですが、大陸や朝鮮半島との交流や宮都建設の発展過程と大和三山との明確な結びつきがOUV(世界遺産としての価値)の中で説明できないと判断されたのかもしれません。

藤原京が築かれる以前は、天皇が替わるごとに「都」が遷されていました。ここでいう都とは、藤原京以降の宮都のような中央集権的なものではなく、大和地方を中心とした各地で暮らす有力な豪族が必要に応じて天皇の住む皇居(宮)を訪れて政務を行うという小さくゆるやかなものでした。

しかし、天武天皇は天皇を中心とした体制を強固なものにするために、中国大陸などで確立していた律令制に基づく大規模な宮都の建設を計画します。それが藤原京です。藤原京では天皇が暮らす皇宮(藤原宮)を中心に官衙(かんが:役所)が築かれ、宮都内に貴族や役人、その家族、農民などが集まって暮らす都市となりました。

また、多くの天皇(大王)が飛鳥京と呼ばれる一帯で暮らしたと考えられる時代には、有力豪族や氏族が自分たちの氏寺として各地に仏教寺院を建設しましたが、中央集権的な藤原京が築かれてからは、宮都に「大官大寺」や「本薬師寺」などの国家寺院が計画的に配置されました。また藤原京の時代には「牽牛子塚古墳」のような日本独自の八角墳が天皇陵として築かれます。

面白いのが、中国大陸の長安などの宮都を手本に作ったはずの藤原京で、宮殿である藤原宮が宮都の中心にあった点です。長安は宮都の北の端に皇宮が置かれていましたし、それは藤原京の後の平城京や平安京でも同じです。「長安や平城京、平安京」と「藤原京」が異なっているのは、前者の地形が宮都の北側が高く南側に行くにつれて低くなっているのに対し、藤原京の地形は南が高く北に行くにつれて低くなっている点です。これだと北端に皇宮を置くのが難しく、そのために宮都の中心に置かれたのではないかとの指摘もあります。そう考えると、藤原京をこの地に築く根拠に大和三山に囲まれた場所というのがまずあったのではないかという気もしますが、僕の推測に過ぎません。古代の遺跡は謎も多く面白いですね。

「飛鳥・藤原の宮都」が世界遺産に登録されると、『百舌鳥・古市古墳群』から「飛鳥・藤原の宮都」、そして『古都奈良の文化財』、『古都京都の文化財』というように日本の国家形成の流れが世界遺産で追えるようになり、学ぶ上でも観光する上でもわかりやすくなります。そこに『法隆寺地域の仏教建造物群』や『紀伊山地の霊場と参詣道』なども信仰などの観点から関わってきますし、世界遺産として保護していく意味も明確になるのではないでしょうか。

ぜひ「飛鳥・藤原の宮都」の進捗にも注目しながら、実際に世界遺産を巡って日本の歴史や文化を体感してみてください。僕も明日香や橿原にまた行きたくなりました。

(2025.01.29)

● 構成資産(候補)