『日本とマチュ・ピチュ“知られざる絆” 』
世界初!マチュ・ピチュの友好都市は日本の村だった
マチュ・ピチュの遺跡には年間150万人もの人が訪れる
友好都市協定締結のセレモニーの様子(左:大玉村 押山村長、右:マチュピチュ村 ガヨソ元村長※2019年4月現在マチュピチュ村村長はダルウィン氏)
今回は年間150万人もの観光客が訪れる人気の世界遺産『マチュ・ピチュ』を取り上げます。テーマは「日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆」。そういうと、いきなり頭にクエスチョン・マークが浮かんだ人もいるかもしれません。マチュ・ピチュといえば日本から1万5000キロ離れた南米大陸ペルーの、標高2400メートル以上の山に築かれた15世紀頃のインカ帝国の遺跡です。そんなマチュ・ピチュと日本がどんな絆によって結ばれているんだろう、本当にあるのだろうか? そう思うのも無理はありません。でもそれは本当です。
2015年にマチュピチュ村(※行政村としては「マチュピチュ村」と表記)が初めて友好都市協定を結びました。相手は人口1万人に満たない日本の小さな村、福島県大玉村でした。世界的に知名度の高いマチュピチュ村には友好都市協定の話が数多く持ち込まれていたといいます。一方で大玉村は世界的にはまったくの無名な村。なぜマチュピチュ村は大玉村を相手に選んだのか? このニュースが流れたとき多くの人が疑問に思ったでしょう。じつはここに日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆のルーツが隠されています。
マチュ・ピチュを「発見」したハイラム・ビンガム
マチュ・ピチュに引き寄せられた二人-ハイラム・ビンガムと野内与吉
話はいっきに1900年代初頭にさかのぼります。マチュ・ピチュは映画「インディ・ジョーンズ」の主人公のモデルとなったといわれるアメリカの歴史学者ハイラム・ビンガムによって1911年偶然「発見」されます。インカ帝国最後の皇帝アタワルパがスペイン人の征服者ピサロによって1533年に処刑され、インカ帝国が終焉をむかえた後、マチュ・ピチュは山中に放棄され忘れ去られていました。インカ帝国時代の遺跡の多くは、スペイン人によって破壊されていたので、マチュ・ピチュのように人知れず残されている遺跡は貴重でした。ハイラム・ビンガムの発見後すぐに大がかりな調査がはじまり、マチュ・ピチュの遺跡には一躍注目が集まります。
ペルーへわたった野内与吉とその家族(画像提供:野内与吉資料館)
マチュ・ピチュに熱い視線が注がれはじめていたそんな時代、ハイラム・ビンガムと同じように何かに引き寄せられるようにして偶然この地にたどりついた日本人がいました。福島県大玉村出身の野内与吉です。
野内は1917年に日本からの移民団の一員としてペルーにわたりました。1920年代にペルーの古都クスコからマチュ・ピチュをつなぐ鉄道の線路拡大工事に関わり、マチュ・ピチュ遺跡のある麓の集落(現在のマチュピチュ村)に定住します。その時、野内はまだ山の上にある遺跡の存在は知らなかったといいます。当時のマチュピチュ村は住む人のほとんどいない未開拓の集落でした。野内は木々を切り拓き土地を整備し、川から水をひき畑をつくり、ほとんどゼロからマチュピチュ村を築いていきました。
ハイラム・ビンガムによる「発見」直後1912年のマチュ・ピチュの様子
1930年代のマチュピチュ村、奥の建物が「ホテル・ノウチ」(画像提供:野内与吉資料館)
現在のマチュピチュ村(画像提供:野内与吉資料館)
1935年に野内はマチュピチュ村で初となるホテルをつくります。「ホテル・ノウチ」という木造建築ホテルです。今では多くの宿泊施設が立ち並び、観光業で盛えるマチュピチュ村にはじめてホテルを作ったのは日本人だったのです。「ホテル・ノウチ」が開業した当時こんな場所に宿泊施設をつくるなんて信じられないと村人たちは語ったといいます。年間150万人もの人が訪れる今のマチュ・ピチュの姿を当時は誰も予想していなかったのでしょう。
「ホテル・ノウチ」にはマチュ・ピチュ遺跡の調査をおこなう多くの学者が宿泊しました。ハイラム・ビンガムがここに泊まったという記録はありませんが、著名なアンデス古代文明の研究者・天野芳太郎などが逗留した記録が残っています。野内はマチュ・ピチュ遺跡を調査する学者たちのガイドを務めました。彼はスペイン語のほか、インカ帝国の公用語だったケチュア語、さらには英語にも通じており、有能なガイドだったといいます。マチュ・ピチュ遺跡の学術調査の黎明期、学者たちを影で支えたのが野内与吉だったといえるかもしれません。
野内与吉はその後、村長も務め、マチュピチュ村の発展に貢献します。これらの業績が評価され、マチュピチュ村は友好都市協定を野内与吉の故郷である福島県大玉村と結ぶに至ったのです。大玉村は「友好都市交流ツアー」と題し、若者を中心とした訪問団をマチュ・ピチュに送る事業をおこなっています。戦前にペルーへ渡った野内が築いた日本とマチュ・ピチュを結ぶ絆は今なお深められているのです。
戦後の野内与吉(画像提供:野内与吉資料館)
マチュ・ピチュの遺産をみてまわる大玉村の若者
昨年の「友好都市交流ツアー」には4人の中学生が参加した
日本のNGO(※)によるマチュ・ピチュの子どもたちへの支援も行われている(画像提供:野内与吉資料館)
※NGO日本マチュピチュ協会:野内与吉の孫である野内セサル良郎氏を中心に活動。マチュピチュ村への学用品寄付、ペルー文化の紹介などをおこなっている。
(世界遺産検定事務局 大澤暁)
『マチュ・ピチュ』に関する 検定の問題はコチラ
マチュ・ピチュ(ペルー共和国) 登録基準:(i) (iii) (vii) (ix) 登録年:1983年登録 登録区分:複合遺産
JICA横浜海外移住資料館での企画展は終了致しました。
【海外移住資料館】ペルー日本人移民120周年記念企画展示「マチュピチュ村を拓いた男 野内与吉とペルー日本人移民の歴史」が開催中。3月2日(土)~5月26日(日)まで。