解説
李氏朝鮮時代では、政治的な派閥争いが度々起きていました。荘献世子は第21代王英祖の次男で、少論派と呼ばれる派閥に属していましたが、敵対派閥の老論派に陥れられてしまいました。老論派の告発を聞いた英祖によって米びつに閉じ込められ、最期は餓死したと言われています。
王位を継承した正祖は父(荘献世子)の名誉を回復し、朝鮮の中で最も風水相が良いと言われた水原の地に墓を移しました。その際、実学を重視した正祖は理想都市として華城を築き、周囲約5.5kmを囲む城壁や見張り塔、楼閣、隠し門など堅固な防御設備を設けたほか、使用資材の規格化などヨーロッパ城郭建築の技術を導入しました。
華城の一部は第二次世界大戦時の日本軍の占領や、朝鮮戦争時に破壊されてしまいましたが、築城記録の原本(『華城城役儀軌』)が残っており、この記録を基に修復・復元作業が行われました。なお、『華城城役儀軌』は2007年にユネスコの「世界の記憶」に登録されています。